いつの間にか行列が消えていた。 人気の折には70人を超した日もあった。 少ない時でも30人は並んでいた。
「行列」 何故も こんなに社会を見せてくれるのだろう。 人の関心、行列という形で その心が見える。 執着や移ろいやすさ、ある意味 「流行り」になるよう仕掛け人がいるのではないか。
良いも悪いも、”熱しやすく冷めやすい” 人の心理をたっぷり見せてもらった。
「PCR検査センター」と表された行列の源、2021年・2月半ばに大阪、北新地の通りに誕生した。
当初、チラッと見る、もしくはスタッフに質問する程度で検査を受けている人はいなかった。(あくまでも、私が目にしていた範囲では) スタッフの数の方が多く道行く人に呼びかけをしていた。 テレビ等でPCR検査を、と耳にしない日が無いほどの騒がれ方なのに、これはどうした事か。
一心理カウンセラーとして考えてみた。
まずは、”怪しさ”といったところか。
突然 誕生した。 医師の紹介や事前予告もなされていなかった。 多分、人の多くはPCR検査は病院で、又は保健所で専門家のもとで受けるもの、という認識だったのではないだろうか。 私も、そう思っていた。
次に、スタッフは大丈夫なのか。 医師なのか、看護師なのか、どの程度の専門家なのか分からない。
研修を受け、その通り手順を踏んでいるだけのアルバイトかもしれない。
そして、受けている人が見当たらない。 ここ、結構 重要なのではないか。 未知のもの、それが命に係わる事なら、誰か他に先に受けていてくれたら、どんなものか、何となく様子が分かる、安心する。 人と同じだと安心出来るという日本人の特徴とされているもの、と言えようか。
しかし、面白いもので、そのセンターが日常の景色として定着するようになると、二人、三人と人が受けだした。 その人達が ”サクラ” と言われるセンター側が用意したものなのかは分からないが。
安心を誘ったのか、人が増え出し、日に日に多くなり30人を下る日はあまり無かったのではないか。 朝の行列が、日々の日常になった。
勤め人達、会社に遅れるんじゃないのか、会社が要求している事なのか、検査を受けるのなら、遅刻は容認されているのか。
当初、夜まで開いていたセンター、そうなると、今日の検査は終了しましたと、昼過ぎには閉めていた。 受けに来たのに、とアテが外れ帰って行く人も結構いた。
それだけ、大盛況だったPCR検査、その現場から人が幻のように人が消えてしまった。
今、一人か二人、全く誰もいない時間もある。
何故? なのか考えてみた。
そうか、「ワクチン」か!!
ワクチンが広まってきた頃と重なる。 ワクチン、ワクチンとこぞってメディアが煽っていた。 今も、ワクチン接種を、と義務ではないにせよ、専門家達や政府も勧めている。
高齢者の感染者数が減って来たのも、ワクチン接種しているからだと。
分かりやすい現象、と言えるのではないか。
しかし、しかしである、思うに、そんなにすぐに信じていいのだろうか、飛びつくのは危険じゃないか、大丈夫なのか。
ワクチンが全てを解決するのだろうか。
ワクチンについて、どれだけ調べたのか、成分は? 身体に異物を入れる、その危険性は どんなものなのか、政府が言うから、ワイドショー等で解決するような情報を流しているから、ワクチンが足りないと、煽らされているからなのか。
早く打たないとと、焦っている人達が多いように見える。
自分の身体、命がかかっている。
それを情報に依存していいのだろうか。
マスクが義務のようになってきた時、不思議に思っていた。
マスクをしていない者を、まるで犯罪者を見るような冷たい目。
「マスクせーや!! あほんだら!!」と、自転車ですれ違う老人の男性に怒鳴りつけられた。
人生、精神的に熟成しても良い年齢の者の稚拙な、暴力的な言語表現。 呆気にとられた。
が、マスクをつけるに相応しい生き方をしている人がどれだけいるのだろう。
日々、充実し、満足し人生を味わっている、何かを生み出し、楽しみ豊かな時間を愛おしんでいる、そんな人、どれだけいるだろう。
退屈だと愚痴り、文句を言い、人を妬み、何か面白い事はないかと、安易なもので発散させている、ネットサーフィン・ゲーム・買い物・テレビ、身近なもので時間を過ごしていないだろうか。
退屈で、同じ事の繰り返し、飽きた毎日に「何かないのか」と刺激を待っているような日常なら、そこまで ”生”に執着する必要があるのだろうか。
マスクをつけるに相応しい、愛おしい時間を味わっている人、どれだけいるのだろう。
故に、私はマスクをかなりの期間、つけなかった。
マスクに申し訳ないような気がしていた。
「人に移したら悪いから」とよく聞く。
反感を承知で正直に記そう。
私を含め、大抵が「その他 大勢の一人」、何も特別な事をしていない。
別に”選ばれた人” ではない。
自分と同じような存在が消えたところで何も社会に痛みはない。
近親者が悲しむ、という現実を除いては。
さすれば、今一度、”生” なるものを見つめなおす時期に来ているのではないか。
自分の時間、もっと、色々なものを味わい感じ、考え、過ぎていくだけの時間に埋没してしまわないよう、マスクをつけるに相応しい手応えのある自分でいてほしい。
つらつらと記しながら、一番自分に痛く刺さっている。
分かっている。
自身の無力感に、どう抗えば勝ち得るのか、常時、その事ばかり、閃き が未だ降りてこず怒りを自分に向けている。
八つ当たり的に、世間人を見つめている、そんな自分の小ささ、浅はかさを恥じてもいる。
その己を「フッ、若いなぁ」と、もう一人の自分が笑って背中を撫でに来てくれたりもする。
今も、隣で記している文章を 「ふぅん」と言いながら眺めている気がする。
TACカウンセリングルーム
大阪・北浜の心理カウンセラー乾 より